Monday, November 12, 2018

菜食主義:舶来品?または日本製?[2]


「菜食主義」とは?


菜食主義・Vegetarianismというのは、動物性食品の一部または全部を避ける食生活を送ることである。中には、食生活を超え、実験動物を使って作られた化粧品でさえ使わない完全菜食主義・veganismや卵製品・乳製品を含むダイエットも受け入れる「卵乳菜食∙Lacto-Ovo-Vegetarian」など、様々の種類がある。菜食主義を選んだ理由は、詳しく見ると、健康を保つことから動物に対する虐待と搾取を一切避けようとすることに至るまで、複雑であることがわかる。

実は、菜食主義の複雑な構造は、定義の多義性によって現れるだけでなく、政治家の言動と世論の風向きからも見られる。以下、西洋社会に「菜食主義」をめぐって起こった政治的事件と日本社会における「菜食主義」に対する社会意識の一部を考察し、菜食主義とは一体何なのかを改めて考える。

ケーススタディ1:ヴィーガンへの差別?イタリアの考え 
 

2016年のことであった。大手メディアであるイギリスのオンライン紙インデペンデントによると、イタリヤ国会の議員Savino氏は、親が子供に完全菜食主義と一致する食生活を押し付けて強要するのを禁止する法案を提出した。それに対して、完全菜食主義者の組織である国際ヴィーガン権利同盟・International Vegan Rights AllianceSavino氏に公開状を出して、この法案はヴィーガンに対する差別に値するのではないかと主張しました。

Savino法案の背景となった事件と引き金として、同じ年にイタリヤ人のある子供が、ヴィーガンの両親に完全菜食の食事ばかりを与えられていたせいか、栄養不足で入院せざるを得ない状況に陥ってしまったという事件が起こった。

政府は国が未来である子供を守るため、手を長く伸ばして国民一人一人の食生活にまで干渉しようとすることに至ったこのできごとは、政権の持つ危険性の現れであろうか、あるいは、資本主義・民主主義のような「主義」になった菜食主義の勢力がすでに強くなりすぎてしまった証であろうか。

どちらが正しいというのは別として、このケースから明らかなのは、菜食主義が単なる個人的な食生活の送り方とは限らないということだ。

 ケーススタディ2:ノンヴィーガンへの抑圧?カナダの思い 


実は、菜食主義をめぐる論争は、ヴィーガンとノンヴィーガンの間にあるだけではなく、ヴィーガン同士の間にも起こるのだ。カナダの首都・トロントに「Parkdale」という町がある。菜食主義、特に完全菜食主義が盛りつつあるうちに、ヴィーガン向けのレストランが事業拡大を目指し、多くの貧しい人が住んでいる町であるParkdaleを狙い、Parkdaleを菜食主義化させ、ヴィーガン向けのVegandaleを作ろうとした。そのため、イデオロギー上の宣伝にも取り組んでいって、「(牛は)あなたの母親じゃない、(あなたが日々飲んでいるミルクは)あなたのミルクじゃない(牛の赤ちゃんしか飲むべきではないものなのだ)」というポスターも壁に貼られるようになった。

そこで、ヴィーガンの中にも反対の声が上がってきた。なぜならば、菜食主義で生きている人は、必ずしもノン菜食主義者より正義の味方であるわけではないし、ヴィーガン向けのレストランが伝えたメッセージは菜食主義の利点を強調する一方、ノンヴィーガンの人を言語と思想の暴力で無理に押させつける傾向が無きにしもあらずだからだ。

こういう「聖人ぶったholier-than-thou」態度は、極めて疑問に思うべきことではないだろうか。菜食にしろ、肉食にしろ、個人的な選択なはずだが、健康ブームに乗りたい、またはすでに乗っている人々にとって、菜食主義を擁護するかどうかは、知らないうちに「私」の領域を逸出して、「公」の領域に侵入してきたのだろうか。

といっても、菜食を選ぶのは、本当に個人が決めることなのだろうか?

日本と菜食主義解きたくない絆?


今の日本には、民間団体として活躍しているヴィーガンと菜食主義に関わる組織たいくつかある。中でも、NPO法人・日本ベジタリアン協会のウェブサイトに載せられた内容は紹介に値するかもしれない。

日本ベジタリアン協会は「『人と地球の健康を考える』をテーマに、菜食によって、限りある資源を分かち合い共存していく、人にも地球にもやさしい『21世紀のライフスタイル』」と唱えて主張して、やや伝統的な健康向けの理念を持っている。公式ウェブサイトには菜食主義者にフレンドリーなレストランについての情報が載せてあり、協会の世界ベジタリアン会議に出席した経緯もいろいろ紹介してくれている。その上、歴史専攻の方々にとって、もっとも興味深いのは、日本と菜食主義との絆または関係を述べる以下の内容かもしれない:

「我が国における食の歴史を遡れば、140年前の明治維新までは、祝事などでは魚を食べたものの、日常は米飯に一汁一菜、まさにベジタリアンの食事をしていました。」

「まさに」とは、実は大げさでもない。確かに、明治以前・元禄以降の江戸社会には、肉食、特に獣肉をもとに出来上がる料理を敬遠した歴史があるようだ。例えば、イノシシの肉を売ったとき、「イノシシ」ではなく、わざと「山のクジラ」(面白いことに、あの時代の人は魚・クジラなど海に泳ぐものをあまり「生き物」と認定しなかったという)として売ったこともあるそうだ。(クジラは生き物でない以上、「山のクジラ」を食っても大丈夫だぞという自分で自分を欺く技だったからだ)これはたぶん、仏教伝来とともに、「殺生」という「生き物を殺すこと」も嫌われてきたからだ。つまり、いつでも肉食が嫌だと考えていたわけではなく、ある思想・イデオロギーの強い影響を受けて、一人一人の好き嫌いから社会全体の意識にわたる変革がおこってしまったことだ。

つまり、仏教伝来の頃から舶来されたものでもあり、伝来してから日本の文化の一部になり、そこで「日本製」になってきたようだ。

そして、日本ベジタリアン協会のウェブサイトに、次に出てきたのは「つまりこのような伝統食が実は立派なベジタリアン食なのです」という判断なのだ。

これはどうだろうか。獣肉を避ける過去があるはあるけれど、伝統的な和食は、本当に今の菜食「主義」と同じ「本性」を持つものなのであろうか。

前のイタリアの法案の話が出てきた後、日本のメディアもそれを報道したようだ。その中に、「専門的な知識をもって『適切に』食事プランを立てればヴィーガンは問題ないというものの、一歩間違えれば栄養失調になるリスクを子どもに負わせてまで親の思想を強制する意味はあるのか、イタリアの法案の行く末を見守りたい」という観点を記事に載せてある。同記事には「動物愛護」や「環境破壊」など倫理的な理由で菜食主義を浸した子育て理念をある程度は認めていながら、「これだけ子供の健康と福祉をリスクするのは理不尽ではないか」という気持ちが強く感じられる。

もしかしたら、子供の貧困と貧困による栄養不良を重要視している日本社会は「菜食主義」に対して「これが一般的には健康にいいものかどうかはともかく、子供の福祉を脅かす恐れがあるようなやり方は認められない」という立場を取ったかな。 

私の考えは、「菜食主義」は確かに人間の健康にいいし動物と自然にも優しい食文化とイデオロギーだとしても、これを理由にして肉などの動物性食品の摂取を許す食生活を全般的に否定するのは過激的で言語道断に違いない。元々、食文化というのは、一定の時間がかからなければ作れないものである。意識的に新しい食文化を作るには、工夫してちゃんとした説明を加えたり、国・地域によって菜食を受ける難易度が違うのを十分に考えたりするのが必要だ。しないと、イデオロギーを押し付ける抑制になるかもしれない。また、人間は社会的動物の一種類である以上、菜食主義を選ぶかどうかは個人が決めることではなく、生物学的または社会的な進化の結果のはずだ。植物性食品を摂取するだけで済む体質かどうか、菜食主義者に優しいレストランやスーパーがあるかどうか、菜食主義によって起こる争いに関する法律・規制がもうできたかどうか、そして食文化の一つであり食生活にかかわるイデオロギーでもある菜食主義に対する社会意識はどうだろうかなど、それぞれの「変量」は、本人も知らないうちに個人の判断を左右している。

だから、菜食主義を選ぶかどうかを決める前、やはり食生活に関する思想、伝統、想像、そして権力関係と権利関係を、もっと深く考えてほしい。


Wednesday, October 10, 2018

菜食主義:舶来品?または日本製?[1]

いろいろ教えてくれて大変感謝する。皆様のアドバスを考えたうえで、ブログのトピック・内容とも下記のとおり変更しようとする。


「菜食主義:舶来品?または日本製?」を新しいトピックにするつもりだ。幅広いコンセプトである「モダニティ」を一々紹介せざるを得ない状況に追い込まれたくないため、今はとりあえず「モダニティ」をトピックから削除し、後でケーススタディを行うときに必要によって具体的に説明するかどうかを決めることになる。


個人的な原因で、ケールをめぐる政治に興味を持つようになった。無邪気な興味だと思ってきたが、最近は、まさか菜食主義に関わる政治にもある程度巻き込まれてしまったかと意識した。「菜食主義」は一体どうやって「資本主義」や「消費主義」などの「偉い」主義の列に加えられたか?「菜食主義」が欧米で大流行している最中、日本における「菜食主義」に関する論議の実態はどうだか?歴史的観点から検討したいことだ。具体的に、下記の内容を中心にブログを作成したい:

A. 「菜食主義」の定義

B. 西洋社会(特に北アメリカとヨーロッパ)で「菜食主義」をめぐる論争の例 (例:イタリアの絶対菜食主義強制を禁止する法案;カナダのVegandaleに関する論争)

C. 日本における「菜食主義」についての様々な視点と立場(ケーススタディから考えて見る。例:伝統や健康やエコや先進国の覚悟など、色んな理由で菜食主義を支持する例と子供の健康や菜食主義の偽善などの視点から反対する例)

D. 「論争の話題となる『菜食主義』は、日本にとっては西洋から伝来したものだか?あるいは伝統的な和食には根深いものだか」という問題意識に基づくBとCの関連性についての検討


日本の「菜食主義」、その歴史とその現状を紹介し、「菜食主義」についての論議から日本と西洋の関係や、日本人の国際認識など、読者の皆様と一緒に考えたい。

小さなことから、大きいな考えへ。当たり前だと考えられている見解を批判的に、理性的に検討する能力を身に付けるのに、このブログが役にたったら嬉しいと思います。

Thursday, September 20, 2018

ケールとお肉から作られたモダニティ [1]

今回のポストに、「ケールとお肉から作られたモダニティ」というトピックの誕生について話したいのです。四つの質問を答えながら紹介します。

① 本当に、どんなトピックを選んだか?

「ケールとお肉から作られたモダニティ」と書いてあっても、やはり「意味不明」、「曖昧」との印象を与えます。実は話したいのは、個人的な食べ物の好き嫌いがどうやって食文化の移り変わりを反映したり、多様な社会の「モダニティ」へ進む旅と繋がったりするか、そして様々な世相がどうやって国民一人一人の食の好みに見えるかということです。

② そのトピックについてどんなことを書きたいか、それはなぜか?

ケールがお好きですか?

それとも、お肉のほうがお気に入り?

考えてみようよ、「今日は何を食べるかな」という質問を受けたら、心に思い浮かぶ答えは何ですか?

そして、なぜその答えにしましたか?

例えパスタ、ピザが食べたいと答えてくれた日本人の方々がいれば、お伺いしたいです。今からタイムマシンで皆様を「モダン・ワールド」から江戸時代に運ぶとすると、同じ答えが出せると思いますか?

無理でしょう。

なぜならば、日本と西洋、特にパスタとピザの故郷と言われるイタリヤとの外交関係と貿易が存在しないことには、パスタとピザの意味も分からないはずで、「パスタとピザ」と答えることももちろん無理ですから。

同じくて、南北戦争時代のアメリカ人に聞いたとしても、多分「お好み焼き」なんかの返事をしないでしょう。

社会の変化にしても外交関係の発展にしても複雑な話題でブログに説明しにくいです。だから、時代につれて変遷するし、国際関係の展開とも関わっている食文化についての話をもとに、「モダニティ」を目指し「民族国家」に向かって、とうとう国際社会に登場した日本の歩みを分かりやすく紹介したいと、私はそう思っています。

もちろん、一口に食文化といっても、実は多くの物事が含まれています。具体的に言えば、このブログに検討したいのは、今北アメリカに注目され、健康ブームに乗っている若い者に大人気のケールと仏教伝来以降の日本にだんだん敬遠されたお肉(特に獣肉)に関わるものです。

ケールはどうやって野菜の王様になり、「健康な生活」の象徴として認定されるようになったのですか?
獣肉を食べるのはダメだという認識はどうやって近世の日本(主に元禄以降、明治以前)に登場した・退場したのですか?

いっしょに考えましょう!

③ ブログを読みに来た皆様に、何を一番伝えたいか?

私、大した野望を持っていないけど、このブログを読んでから買い物に行って、ケールとお肉を見たとき、「さあ~~ケールとお肉を両方とも見える、それはそれは時代が変わったものだ」と言ってくれれば、光栄だと感じますわ~(笑)

冗談はさておき、正直にいえば、元々歴史というものは、私たちのような平々凡々な人々で作られたものなんです。「モダニティ」を含め、人間社会の進歩とその進歩に隠れる闇は、私たちの飲食にさえ見える。

このブロブを読んでからこういう批判的な考えができてくれれば、嬉しいです。

④ ブログを読みに来た皆様にとってどんなメリットがあるか?

さあ、ケールとお肉を食べるのが好きになって、もっと体にいい生活を送れるようになる?って、そういうメリットではないのです!

小さなことから、大きいな考えへ。当たり前だと考えられている「常識」
を批判的に、理性的に検討する能力を身に付けるのに、このブログが役にたったら嬉しいと思います。

(因みに、母語が日本語ではないので、文法的な間違いと言葉の不自然な箇所がいくつも出てくるかもしれないが、どうかご勘弁ください)

Sunday, September 16, 2018

ケールとお肉から作られたモダニティ [0]

はい、タイトルに示すどおり、江戸と明治時代の日本における獣肉食に関する歴史と今のアメリカでは注目される人気な野菜・ケールについてのブログです。

今は歴史学のPhDを目指して大学院で勉強しています。そして、専門分野で関心するテーマと言えば、やはり「モダニティ」が一番興味深くて、詳しい検討に値すると思います。

東アジア諸国は、一体どうやって王政から近代民族国家に転換してきたかと、歴史的観点から見れば、これは「何年何月にXX政権が成立にあたって、…」と簡易に結論できることではないのです。モダニティというのは、科学技術の発展や経済・政治についての制度の進化に繋がるコンセプトだけではなく、人々と市民社会の抱えている認識とも関係が深い。

さて、ケール、お肉と「モダニティ」はどんなふうに繋がっているのですか?ケールとお肉でモダニティを作られるのですか?(っえ?塩も要らない?)なぜこの平々凡々な私がこういう「非凡」な(=変な)タイトルでブログを作りたくようになりましたか?

では、次の記事をお楽しみに。

(因みに、母語が日本語ではないので、文法的な間違いと言葉の不自然な箇所がいくつも出てくるかもしれないが、どうかご勘弁ください)